無痛分娩事故の患者の遺族のコメントは,下記のとおりです.
1 要望
私の妻に起きた医療事故が今後起きないように、この医療事故と無痛分娩が原因と疑われる医療事故、ヒヤリハットがどれくらい起きているのか、をきちんと調べて公表してくださるようお願いいたします。そして、もしその原因が、今の医療体制にあるのであれば、医療体制の充実をはかってほしいと思いますし、産科医が外来の片手間に無痛分娩(硬膜外麻酔)を行うようなことが絶対にないようにしていただきたく、お願いいたします。
2 神戸市西区のクリニックでおきた医療事故
【2015年9月2日の経過】
9時15分 テストドーズ後院長医師は外来へ
妻は車椅子で別の部屋(分娩室)へ移動
9時35分 硬膜外麻酔開始、院長医師は再び外来へ
9時40分 気分不良、嘔吐
9時51分 呼吸困難、看護師がドクターコール
9時58分 心電図装着 酸素投与
9時59分 搬送依頼
10時00分 呼吸できず
10時07分 呼びかけに反応せず
10時08分 血圧測定できず
10時10分 救急隊要請
10時15分 救急隊到着、心電図PEA(心静止)
10時28分 救急車内収容
10時46分 神戸大学病院に到着
10時56分 緊急帝王切開で児娩出、新生児仮死、蘇生
11時02分 妻心拍再開
2015年9月2日、無痛分娩の硬膜外麻酔によって、妻は重大な後遺障害を負い、意識を取り戻すことなく、2017年5月12日に亡くなりました。緊急帝王切開で生まれた子どもも、脳に大変重い障害を負い、現在も意識のないまま入院生活をおくっています。
私たち夫婦にとっては初めての子で、妊娠がわかってからの毎日は幸せでいっぱいでした。子どもが産まれからの日々を想像し、二人で沢山の夢を語り合ってきました。家族や友人と一緒に旅行に行こう、年の近い姪や甥と子どもを連れてショッピングに行こう、お互いの両親の家に子どもを連れて遊びに行こうといった、ごく平凡ではありますが幸せな家族の姿を思い描き、語り合ってきましたが、全てが今回の事故により失われてしまいました。
医療事故は、無痛分娩のための硬膜外麻酔のカテーテルがくも膜下腔にまで達し、くも膜下腔に局所麻酔薬が浸潤し中枢神経系の大部分に麻酔が作用した状態(全脊麻)となってしまったことが原因でした。搬送された神戸大学病院で行われた画像検査と、チューブから髄液が引けたことから、このことは確認されています。
事故後に知ったことですが、硬膜を穿破し全脊麻になると、急速に産婦は意識を消失し、徐脈、低血圧、呼吸停止と進行し、放置すると心停止に至ると木下勝之先生が監修した本に書いてありました。
これも事故後に知ったことですが、硬膜外麻酔を行う場合には、試験的に少量の麻酔薬を投入し観察すること(テストドーズ)、硬膜外麻酔の開始後も医師が産婦に付き添って観察することが求められています。
院長医師は、妻に麻酔薬を投与し、外来に行ってしまっていたために、妻の異変に気付かず、対応も遅れ、取り返しのつかない結果になってしまいました。
硬膜外麻酔自体は出産以外でも行われていますし、私は、硬膜外麻酔自体を否定するわけではありませんが、一人の医師が外来診療を行いながら硬膜外麻酔を行うのは絶対に止めてほしいと思います。
3 無痛分娩まで
里帰り出産を希望していた妻は、実家に最も近い神戸市西区のクリニックにお願いすることにしました。クリニックの口コミ評判や和室の分娩室が設置されていることも決め手となりました。妻は、無痛分娩の希望は全くありませんでしたが、院長医師に児が大きいことを理由に無痛分娩を強く勧められました。
分娩前日夜、陣痛促進剤を投与し陣痛が起きており、私は立会分娩に備え、妻と共にクリニックの病室で一緒に夜を明かしました。しかし、一夜明けても本格的な陣痛が来なかったことから、医師の強い勧めにより無痛分娩と吸引分娩を併用することとなり、硬膜外麻酔を実施することとなりました。
たしかに、「無痛分娩についての説明と同意書」には、「低血圧、頭痛(1%)、微弱陣痛による陣痛促進剤の使用、吸引分娩の頻度増加、薬剤アレルギー、血管内誤注入、感染、出血、麻酔薬のくも膜下投与による広範囲麻酔、神経障害(異常感覚)等が起こりえます。なお不明な点は、担当医にご質問ください」と印字で書いてありましたが、まさかこのような最悪の事態になるとは思いもしませんでした。
4 テストドーズ
院長医師は、9時15分に、オペ室で試験的に少量の麻酔薬を投入した(テストドーズ)後、外来に行ってしまいました。
私は、オペ室の看護師から呼び出されました。妻の足がしびれ、自足歩行ができず、車いすに乗せるに際し男性の手伝いがほしいとのことでした。私は妻を支え、車いすに乗せました。妻は、車椅子で分娩室に移動しました。
これも事故後に知ったことですが、テストドーズ後、「たとえくも膜下腔に誤注入しても、両下肢が動かなくなった段階で異常に気づく。その後の注入を止めれば、全脊麻に至ることはまずない」と木下勝之先生が監修した本に書いてありました。
5 硬膜外麻酔
院長医師は、9時35分に、分娩室に来て、本番の麻酔投与を行ない、再び外来に行ってしまいました。
麻酔投与後、妻は気分が悪くなり、吐きました。
子どもの心拍が下がり始め、看護師は何度か姿勢を変えさせたりしていました。そうこうしている間に妻の呼吸の様子が変わってきました。看護師は、妻に心拍計を付けようとしましたが、うまく心拍を計ることができず、酸素マスクを用意しながら、ドクターコールをしました。これが9時51分のことです。
妻は「息ができない」と細い声で私に言いました。その後、意識を失いました。
救急隊が到着し、妻は大学病院に緊急搬送されると聞き、私たちも急ぎ後を追いかけました。
6 搬送後
神戸大学病院の先生によると、当病院に到着した時は既に母子共に心拍停止状態となっていたものの、到着10分後に緊急帝王切開を行い、母子各々懸命に蘇生措置を行うことで、心臓の鼓動が戻ったと知らされました。
その時は一瞬助かったのかもしれないと思いましたが、その後、無呼吸状態が続いたことにより脳が低酸素状態に陥っており、大きなダメージを負っていると聞かされました。
自発呼吸はできず、人工呼吸器に?がれ、身体には様々な計器をつけられた妻と子どもに会いました。
脳のダメージを最小限に抑えるため、脳を冷やすことにより腫れを抑えること(低体温療法)となりました。数日間低体温療法を行ったものの、やはり初期のダメージが大きく、脳機能が回復することはありませんでした。
妻は低酸素脳症と診断され、いつ心臓が停止するか分からない状態が続きました。途中、肺炎を患いながらも、何とか初期の危機的状態を脱し、集中治療室から一般病棟へ移りました。病棟を移ってからも、当然ですが意識は戻らず常に人工呼吸器管理が続き、途中腎臓機能の調子が悪くなるなど、死を覚悟することも何度もありました。
私は都内に勤務する会社員ですが、神戸にある妻の実家に宿泊し、約半年の長期に亘り、毎日病院に通いました。回復は望めないと医学的には言われてはいるものの、もしかしたら奇跡が起きるかもしれない、また厳しい状態にある中では限られた時間を少しでも共に過ごしたいという思いで妻と子どもに接してきました。
7 妻のこと
妻は面倒見もよく、人を大事にし、誰にでも好かれ、慕われる性格の女性でした。
妊娠後は、産まれてくる子どものために必要なものを準備をして、その日を待っていました。時にお腹の中で動き回る子どもの様子などを動画で撮影し嬉しそうに見せてくれたりもしました。
約1年半もの間妻は頑張り続けましたが、今年の5月12日に息を引き取りました。
亡くなったのは急でしたが、神戸で行われた告別式には、遠方にもかかわらず会社の部下、上司、同僚が東京から数多く駆け付けてくださいました。これほど多くの方にお見送りしていただけるとは思ってもみませんでした。
8 子どものこと
子どもも母体同様、出産直後の懸命な蘇生により心臓の鼓動は回復しましたが、脳に大きなダメージを受けました。産まれてから一度も意識は回復せず、自発呼吸もできず人工呼吸器による管理が続いております。胃瘻により栄養剤を胃に注入しており身体は徐々に大きくはなっておりますが、既に脳細胞はほぼ死滅しており今後の回復は望めない状態です。脳による自律的な体のバランス調整が機能せず電解質の濃度が大きく変動したり、肺炎を患うなど厳しい状態が続いております。
9 今の思い
この日の出来事をきっかけに私たちの人生は大きく変わってしまいました。
皆に愛された妻、何の罪もない我が子が、なぜ命を失い、あるいは将来の希望を断たれてしまったのか、悲しくて悔しくてたまりません。これからの人生を孤独に生きて行くことも苦しく、考えるだけで胸が張り裂けそうになります。
今でも幼い子どもを連れた家族連れを目にするだけで心が大きく痛み、しばらくの間は、家族連れが集う近所のスーパーに行くことすら苦痛でした。
事故以降、心の底から楽しいと思えた瞬間はありませんし、これからも苦しみを抱えながら生きていきます。私が今できることは、無痛分娩のリスクを伝え、二度と同じような事故が起こらないようにお願いすることだけです。