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最高裁医療判例real estate

最高裁医療判例
〇最判平17 ・ 12 ・8集民218号1075頁

東京拘置所脳梗塞事件

2 本件は,上告人が被上告人に対し,東京拘置所の職員である医師は,上告人に脳こうそくの適切な治療を受ける機会を与えるために,速やかに外部の医療機関に転送すべき義務があったにもかかわらず,これを怠り,上告人に適切な治療を受ける機会を失わせたなどと主張して,国家賠償法1条1項に基づいて,慰謝料等を請求する事案である。

3 勾留されている患者の診療に当たった拘置所の職員である医師が,過失により患者を適時に外部の適切な医療機関へ転送すべき義務を怠った場合において,適時に適切な医療機関への転送が行われ,同病院において適切な医療行為を受けていたならば,患者に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されるときは,国は,患者が上記可能性を侵害されたことによって被った損害について国家賠償責任を負うものと解するのが相当である(最高裁平成9年(オ)第42号同12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁,最高裁平成14年(受)第1257号同15年11月11日第三小法廷判決・民集57巻10号1466頁参照)。
前記事実関係によれば,(1) 第1回CT撮影が行われた4月1日午前9時3分の時点では,上告人には,血栓溶解療法の適応がなかった,(2) それより前の時点においては,上告人には,血栓溶解療法の適応があった可能性があるが,血栓溶解療法の適応があった間に,上告人を外部の医療機関に転送して,転送先の医療機関において血栓溶解療法を開始することが可能であったとは認め難い,(3) 東京拘置所においては,上告人の症状に対応した治療が行われており,そのほかに,上告人を速やかに外部の医療機関に転送したとしても,上告人の後遺症の程度が軽減されたというべき事情は認められないのであるから,上告人について,速やかに外部の医療機関への転送が行われ,転送先の医療機関において医療行為を受けていたならば,上告人に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということはできない。そして,本件においては,上告人に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということができない以上,東京拘置所の職員である医師が上告人を外部の医療機関に転送すべき義務を怠ったことを理由とする国家賠償請求は,理由がない。なお,東京拘置所の医師が外部の医療機関に転送しないで上告人に対して行った診療は「生命の尊厳を脅かすような粗雑診療」であるから国家賠償責任がある旨の上告人の主張は,前記事実関係によれば,東京拘置所の医師は上告人に対して所要の治療を行っており,その診療が「生命の尊厳を脅かすような粗雑診療」であるということはできないから,前提を欠き,採用することができない。

以上と同旨の原審の判断は,正当として是認することができる。論旨は採用することができない。なお,その余の請求に関する上告については,上告受理申立て理由が上告受理の決定において排除された。

よって,裁判官横尾和子,同泉徳治の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官島田仁郎,同才口千晴の各補足意見がある。

裁判官島田仁郎の補足意見は,次のとおりである。

私は法廷意見に賛同するものであるが,詳細な反対意見が付されたことにかんがみ,以下に私の見解を補足して述べておくこととしたい。

最高裁平成12年9月22日第二小法廷判決及び同15年11月11日第三小法廷判決は,医師の過失と患者の死亡又は重大な後遺症との間に因果関係の存在が証明されなくても,「患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性」又は「患者に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性」の存在が証明されたときは,医師はその損害を賠償すべき不法行為責任を負うとしたものである。
ここで不法行為法上の保護法益として考慮の対象とされたのは,なお維持できたであろう患者の生命又は重大な後遺症が残らなかったであろう患者の身体である。医師の不法行為責任を問うには医師の過失と患者の生命身体に受けた損害との間の因果関係の存在が必要であるところ,それに代えてこのような「相当程度の可能性の存在」があれば足りるとすることによって医療過誤訴訟における患者側の立証の困難を緩和するとともに,「相当程度の可能性の存在」を要件とすることによって,発生した結果との間の因果関係が立証されなくても損害賠償責任が認められる場合を合理的な範囲に画したものと理解される。

上記各判例が「相当程度の可能性の存在」が証明されなかった場合の医師の損害賠償責任の有無に触れていないのは,反対意見の指摘するとおりである。しかし,各判例は上記のとおり保護法益として患者の生命身体を念頭に置いた上で死亡又は後遺症との間の因果関係がなくても「相当程度の可能性の存在」が証明されれば足りるとしているのであるから,「相当程度の可能性の存在」を因果関係の存在に代わる要件であるとしているのは明らかである。法廷意見が上記第三小法廷の判決を引用して本件の結論を導いたのは,以上のような理由による。

もっとも,反対意見のいうように,本件における不法行為法上の保護法益を,重大な後遺症を受けた患者の身体ではなく,「適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける」こと自体に対する患者の利益であると解する余地はある。そのように解した場合には,転送して適切な医療行為を受けたなら重大な後遺症が残らなかった「相当程度の可能性」の有無は,過失の有無・程度を判断する上で考慮すべき重要な要素とはなっても,賠償責任を認めるための要件とはならないといえよう。

そこで次に,本件の保護法益を上記のように解した場合について私の意見を敷衍すると以下のとおりである。適時に適切な医療行為を受けること,そのために適時に適切な医療機関へ転送されることは,誰もが願う基本的な利益であり,それが実現されることが望ましいことはいうまでもない。私は,検査,治療が現在の医療水準に照らしてあまりにも不適切不十分なものであった場合には,仮にそれにより生命身体の侵害という結果は発生しなかったとしても,あるいは結果は発生したが因果関係が立証されなかったとしても,適切十分な検査,治療を受けること自体に対する患者の利益が侵害されたことを理由として損害賠償責任を認めるべき場合があることを認めるにやぶさかではない。しかし,医師,医療機関といえどもすべてが万全なものではなく,多種多様な現実的な制約から適切十分な医療の恩恵に浴することが難しいことも事実として認めざるを得ない。ある程度の不適切不十分は,社会生活上許容の範囲内として認めるべきであろう。したがって,結果発生との因果関係が証明された場合はともかく,その証明がなく,上記のような「相当程度の可能性の存在」すら証明されない場合に,なお医師に過失責任を負わせるのは,著しく不適切不十分な場合に限るべきであろう。どの程度まで不適切であり不十分であったなら,患者の利益が不法に侵害されたものとして法的に保護されるべきであるかは,非常に微妙で難しい問題であり,意見が分かれやすいところである。この点は,相互の信頼関係を基盤として成り立つ弁護士,税理士,教師等の仕事において,適切十分な弁護,指導等を受ける依頼者,生徒等の利益をどの程度まで保護すべきであるかということと共通する極めて広がりの大きい問題でもある。私は,この種の事件に関して保護法益を柔軟かつ弾力的に広げて解することについて反対するものではないが,それによって発生した結果との因果関係が立証されないか結果が発生しない場合までも過失責任を認めることになるので,それが不当に広がり過ぎないように,法益侵害の有無については厳格に解さなければならないと考える。したがって,かかる保護法益が侵害されたというためには,単に不適切不十分な点があったというだけでは足りず,それが果たして法的に見て不法行為として過失責任を問われねばならないほどに著しく不適切不十分なものであったというべきかどうかについて,個々の事案ごとに十分慎重に判断する必要がある。本件の事実関係により東京拘置所の医師らが執った措置を全体的に通観すれば,決して万全であったとはいえないが,拘置所の医師らは彼らに義務として要求される最低限のことは尽くしていたといえよう。反対意見は,4月1日午前8時30分ころには上告人が急性期の脳卒中患者であることを認識していたか,少なくとも認識し得たものというべきであるから,医師らは速やかに上告人を適切な医療機関へ転送すべき義務があったのに,これを怠ったのであるから過失があり,上告人が転送されなかったことで受けた精神的損害を賠償する責任があるという。しかし,拘置所の職員が上告人の異常に気が付いたのは日曜日である1日の朝7時30分過ぎのことであり,それからわずか1時間位しか経過せず,未だ病状を観察する暇も十分ではなくCT撮影もできていないこの段階では,医師らとしては,せいぜいICUに収容して応急の措置を執ることで精一杯であったとしても不思議ではない。拘置所が翌2日の昼に適切な病院への転送を試みた際にも初めの2か所からは受入れを断られたという経緯に照らしても,日曜日の朝早く拘置所に収容されている者についてCT撮影による確認もしていない段階で受入れ方を依頼したとしても早急に適切な受入れ機関が見つかったかどうかも疑問であり,その時点で早々に他の医療機関への転送の手続をしようという判断に至らなかったとしても,現実の処理の問題としては無理からぬことであったといえよう。そして,拘置所において執られた措置は,CT撮影,グリセオールや感染防止薬の投与,気管切開等脳こうそくの患者に対して通常行われる手順に従っており,全般的に妥当なものであったとの専門医の見解は,医学に疎い吾人にとっても相当なものとして納得できるものである。しかも本件は,発症後の経過時間から考えて発見後可及的速やかに転送されたとしても後遺症の程度が軽減されたとは認められない事案である。転送されていたならば後遺症を免れ,あるいは軽減されたであろうという事案に比べれば,転送されなかったこと自体の精神的損害もそれほど大きいものとはいえない。以上の点を総合考慮すれば,医師らがもっと早くに転送をしなかったことが上告人にとって不適切不十分な措置であったとはいえても,法的にみてそれが不法行為として過失責任を問われねばならないほど程度の著しいものであったとは到底思われないのである。

したがって,上告人の保護法益を,適切な医療機関に転送されて適切な医療行為を受けることができなかったことによって後遺症が生じたことを理由とする身体上の利益であると解しても,あるいは適切な医療機関に転送されて適切な医療行為を受ける利益自体であると解しても,拘置所の医師らの過失を理由とする国家賠償責任を認めることはできない。

裁判官才口千晴の補足意見は,次のとおりである。

私は,法廷意見に賛同するものであるが,反対意見を踏まえ,補足して意見を述べる。
法廷意見の判断は,判決書記載のとおりであり,その理由と論理構成は,島田裁判官が補足意見において詳細に述べられているとおりである。

医療過誤訴訟における不法行為ないしは債務不履行は,医師の専門性や独占性,患者の依存性や医療法制等から一般の不法行為ないしは債務不履行とは異なる特殊性を有するところであるから,法廷意見は,最高裁平成15年11月11日第三小法廷判決を踏まえて,「本件においては,上告人に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということができない以上,東京拘置所の職員である医師らが上告人を外部の医療機関に転送すべき義務を怠ったことを理由とする国家賠償請求は,理由がない。」との結論を導いたものである。

上記判決は,「患者に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在」を要件とすることによって,損害賠償責任が認められる範囲を合理的な範囲に画したものと理解すべきものである。同判決が「相当程度の可能性の存在」が証明されなかった場合の医師の損害賠償の有無について触れていないことは,反対意見の指摘するとおりであるが,そうであるからといって,本件における保護法益を,重大な後遺症が残った患者の身体ではなく,「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等を受ける利益」とし,その利益を侵害されたことを理由として損害賠償責任を認める反対意見には,同調することができない。

そもそも,反対意見は,実定法に定めのない「期待権」という抽象的な権利の侵害につき,不法行為による損害賠償を認めるものであるから,医師が患者の期待権を侵害すれば過失があるとされて直ちに損害賠償責任が認められ,賠償が認められる範囲があまりに拡大されることになる。また,医師について「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたこと」を理由として損害賠償を認めることは,医療全般のみならず,専門的かつ独占的な職種である教師,捜査官,弁護士などについても,適切な教育,捜査,弁護を受ける利益の侵害などを理由として損害賠償責任を認めることにつながり,責任が認められる範囲が限りなく広がるおそれがある。そして,反対意見は,本件事実関係につき,拘置所の職員が上告人の異常に気づいた日曜日である4月1日の午前7時30分過ぎからわずか1時間後の午前8時30分ころには上告人が急性期の脳卒中患者であることを認識していたか,少なくとも認識し得たものであるというべきであるから,医師らは速やかに上告人を適切な医療機関へ転送すべき義務があったのに,これを怠ったので,医師らに過失があり,上告人が転送されなかったことで受けた精神的損害を賠償する責任があるとし,上告人に重大な後遺症が残らなかった「相当程度の可能性の存在」の証明いかんにかかわらず過失責任を認めるものである。これは前記第三小法廷判決の判旨に反する判断であり,反対意見は,判例変更を示唆するものである。

また,反対意見は,最高裁平成12年2月29日第三小法廷判決,同13年11月27日同小法廷判決,同14年9月24日同小法廷判決等を引用し,「患者が適時に適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益」は,上記各判例で不法行為法において法的保護に値する利益であると既に認めているものと比較しても,保護すべき程度において,勝るとも劣らないものであり,不法行為法上の保護利益に該当するという。しかし,上記各判例が保護利益として認めているのは,輸血を伴う手術を受けるか否かについての意思決定権,乳がんの治療方法の選択について熟慮判断の機会を与えられる利益,あるいはがんの患者が家族への病状の適時の告知によって受ける利益等の別個の保護利益であって,本件で問題になっている適切な治療等の医療行為を受ける保護利益とは本質的に異なるものである。

本件は,医療過誤の損害賠償について,可能性侵害の法理を確立した最高裁平成12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁を確認し,患者に重大な後遺障害が残ったケースに同法理の射程を広げた前記平成15年11月11日第三小法廷判決の判旨に沿って処理するのが相当である。

もっとも,医師の検査,治療等が医療行為の名に値しないような例外的な場合には,「適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたこと」を理由として損害賠償責任を認める余地がないとはいえないが,本件の事実関係によれば,東京拘置所の医師らは,上告人をICUに収容して所要の治療を行っており,上告人につき東京拘置所で執られた一連の診療措置は,脳こうそくの患者に対し通常行われる手順に従っており,全般的に妥当なものであったと評価できるから,本件が,前記の例外的な場合には当たらないことは明らかである。

以上の次第で,私は,拘置所の医師らの過失を理由とする国家賠償責任を認めることができないとする法廷意見に賛同するものである。

裁判官横尾和子,同泉徳治の反対意見は,次のとおりである。
私たちは,東京拘置所は,D医師が,上告人につき,4月1日午前8時ころに脳内出血又は脳こうそくの疑いありと診断した上,以後の治療に備えて血管及び尿路確保等の緊急措置を終えた同日午前8時30分ころには,上告人を脳血管障害の専門医による医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を行うことのできる医療機関へ移送すべき義務があったというべきであって,被上告人は,上告人に対し,専門医による医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害したことに係る精神的損害を賠償すべきであり,これを否定した原判決は破棄されるべきであると考える。その理由は,次のとおりである。

1 原審が確定した事実関係の概要は,次のとおりである(多数意見の事実摘示と一部重複する。)。
(1) 上告人は,4月1日(日)午前7時30分ころの起床時点検の際,東京拘置所職員により,布団の上で上半身を起こしたままの状態で,起床の作業を行わず,同職員が声をかけても何の反応もせずに,「うっ」,「あっ」と声を発するだけのところを発見され,当直勤務のD医師(外科医)により,同日午前8時ころ,脳内出血又は脳こうそくの疑いがあると診断され,同日午前8時10分ころ,同拘置所内の特定集中治療室(ICU)に収容され,同日午前8時30分ころ,以後の治療に備えての血管及び尿路確保等の緊急措置を受けた。

(2) 東京拘置所の医務部では,医師及び准看護師の2人が毎日当直していた。
その当直場所は,ICUの存在する建物の隣の建物の2階の医務部事務室であって,ICU内の患者の様子をモニターで監視できるようになっていたが,ICUに駆け付ける際には,2箇所の鍵を開けて行かなければならず,午後11時30分ころには,医務部事務室のモニターは消されるのが通例であった。もっとも,ICU内のモニターは24時間作動しており,一般職員によるICUの巡回は行われていた。
なお,「基本診療料の施設基準等及びその届出に関する手続きの取扱いについて」(平成12年3月17日付け厚生省保険局医療課長等通知)は,特定集中治療室(ICU)管理料に関する施設基準について,@ 専任の医師が常時,ICU内に勤務していること,A 看護師が常時,患者2人に1人の割合でICU内に勤務していること,B 当該ICU勤務の医師及び看護師は,ICU以外での当直勤務を併せて行わないものとすること等と定めていた。東京拘置所の「ICU」という名称の病室は,上記@〜Bの基準は満たしていなかった。なお,医務部の診療科目の一つに脳外科があり,脳外科の医務官は2人であった。

(3) 4月1日午前8時30分から翌2日午前8時30分までの当直勤務は,E医師(精神神経科医)と准看護師の2人であった。E医師は,4月1日午前8時30分ころ,D医師から,上告人について脳内出血又は脳こうそくが疑われること,緊急措置は行ったが,CT撮影で原因の確認をする必要があることなどの引継ぎを受けた。E医師は,同日午前9時3分ころ,自ら第1回目の上告人の頭部のCT撮影を行い,低吸収域が写っていたことから,脳こうそくであると判断し,脳浮しゅ対策のため,准看護師に対し,抗脳浮しゅ剤であるグリセオールの投与を開始するよう指示した。指示内容は,200mlのものを約1時間で滴下するよう調整し,1日分として午後10時までに4本滴下し,容態が急変しない限り,翌日は午前6時ころに開始するというものであり,診療録には,4月1日午後5時30分及び午後9時20分に投与したとの記載がある。4月2日の診療録にはグリセオールの投与の有無が記載されていないものの,上記指示のとおりの投与がされたものと認められる。E医師は,呼出しを受けて登庁したF技師により4月1日午前11時15分ころに行われた第2回目のCT撮影の画像でも低吸収域が認められたことから,脳こうそくの可能性が高いとの当初の判断を確認し,医務部長であるG医師(一般消化器外科医)に電話で報告したが,特段の指示は受けなかった。同日午後11時30分ころ,医務部事務室内のモニターの電源が切られ,翌2日の朝まで,E医師や准看護師による巡回はなくなった。

(4) 4月2日,G医師は,午前7時50分ころ,上告人を診察し,従前の措置を確認するとともに,血管確保に伴う感染防止の投薬等を指示したが,午前9時27分ころに行われた第3回目のCT撮影の画像により,左の脳室が圧迫されており,脳浮しゅの進行が認められたことから,午前10時ころ,そのまま東京拘置所で保存的治療を継続することは不適当と判断した。上告人は,午後3時41分にJ病院へ移送され,午後4時30分ころ行われた頭部CT撮影の結果では,左中大脳動脈領域に広範な脳浮しゅが出現し,左半球は脳溝が狭小化し,脳室は拡大し,大脳鎌(海馬)釣ヘルニアがあるという状態で,前日や当日午前中より増悪傾向にあり,午後10時15分から前側頭部の緊急開頭減圧手術を受けるに至った。

(5) 脳こうそくについては,一般に発症後一定の期間を急性期とし,それ以降の慢性期と区別している。急性期の期間について定説があるわけではなく,1,2週間以内を急性期とする者もあるが,K証人は一般に24時間以内を急性期というとしている。急性期の中でも発症当初の一定時間内を超急性期という。超急性期においては,血栓溶解薬を用いた血栓溶解療法が一定の治療効果をもたらすことが認められている。血栓溶解薬には,組織プラスミノーゲン・アクチベータ,ウロキナーゼがある。米国等では,発症後3時間以内の脳こうそく患者に対して組織プラスミノーゲン・アクチベータを静脈内投与することが認可されているが,日本においては,脳こうそくの治療に組織プラスミノーゲン・アクチベータを使用することは認められていない。日本において脳こうそくに対して承認されている血栓溶解薬とその投与法は,発症後5日以内の脳血栓症に対する低用量ウロキナーゼ(6万単位/日)の静脈内反復投与法(7日間)のみであるが,ウロキナーゼ静脈内反復投与法では,十分な閉そく脳血管の再開通を得ることはできない。そのため,日本では,現実には,いくつかの脳卒中専門施設で,高用量ウロキナーゼあるいは組織プラスミノーゲン・アクチベータの局所動脈内投与や静脈内投与による血栓溶解療法が行われている。血栓溶解療法が好適応であるのは,一般的に,発症後3時間以内又は6時間以内であること,CT画像上明らかな低吸収域がないことなどの条件を満たす場合であるとされている。

(6) 上告人は,第1回目のCT撮影が行われた4月1日午前9時3分ころの時点で,発症後6時間以上,あるいは数時間以上が経過していたものと認められ,その発症時期は,午前7時30分の起床の点検時よりも何時間か前であった可能性が高い。したがって,第1回目のCT撮影が行われた時点では,上告人につき,血栓溶解療法の適応があったとは認め難い。もっとも,同日午前8時30分過ぎころの時点では,上告人についてCT撮影をしても低吸収域が認められなかった可能性はあり,血栓溶解療法の適応があった可能性は必ずしも否定できない。

(7) E医師は,必ずしもCTの撮影に習熟していたとはいえない状態であり,そのためもあって,第1回目のCT撮影も,脳卒中の専門医からみれば,遅すぎたと評価されるものであった。また,E医師は,脳卒中の治療について十分な知識と経験を有していたわけではなく,CT画像の読影やその後の治療についても,一定の限界があった。東京拘置所で経過観察及び治療を続けるよりも,早い段階で専門の医療施設に転医させた方が,相対的にきめ細かな経過観察ができた可能性は高いし,必要になれば直ちに開頭減圧手術を行うことができるという意味で,安全性も高かったと認められる。しかし,同拘置所においても,上告人の症状に対応した治療は行われているし,転医させたとすれば,症状あるいは後遺症の内容,程度に影響を与えたと認めるに足りる証拠も存しない。

2 国が刑事被告人を刑事施設に勾留している場合,国は,一方的・強制的にその身体の自由を拘束しているのであるから,刑事被告人が疾病にかかっているときは,必要な医療上の措置を執るべきであり,疾病の種類又は程度等により刑事施設内で適切な治療を施すことができない刑事被告人については,これを他の病院へ移送して適切な治療を施すべき義務を負うと解するのが相当である(監獄法43条,刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律43条参照)。 

3 東京拘置所のD医師は,4月1日の午前8時ころ上告人につき脳内出血又は脳こうそくの疑いありと診断した上,以後の治療に備えた緊急措置を行い,午前8時30分ころ次の当直勤務のE医師に引き継いだ。前記1に摘示した事実からして,当時の上告人が,症状に急激な変化が起こる可能性のある急性期の患者であったことが明らかである(現に,翌2日午前9時27分ころ行われたCT撮影の画像では,脳浮しゅの進行が認められ,そのまま東京拘置所で保存的治療を継続することは不適当と判断され,J病院へ移送された後の午後4時30分ころ行われたCT撮影では,更に増悪傾向が見られ,午後10時15分から前側頭部の緊急開頭減圧手術が施行されるに至っている。)。急性期の脳内出血,脳こうそく等の脳卒中の患者については,脳血管障害の専門医をはじめとする専門的訓練を受けたスタッフと専門施設を備えた医療機関において,検査,治療等の医療行為を行う必要があることは,公知の事実というべきである。

4 4月1日の医務部の当直勤務は,E医師と准看護師の2人であり,E医師は,精神神経科医であって,脳卒中の治療について十分な知識と経験を有していたわけではなく,CT画像の読影やその後の治療についても,一定の限界があった。抗脳浮しゅ剤であるグリセオールの投与も,午後9時20分の4本目の投与を最後に,翌朝午前6時まで中断されている。E医師は,医務部長である一般消化器外科医のG医師に電話による報告を行っているが,脳外科の医務官を呼び出したり,同医務官と電話等で相談をした形跡がない。E医師や准看護師が詰めていた医務部事務室のモニターは,午後11時30分ころ消されている。医務部では,翌2日には症状の悪化に伴い上告人をJ病院へ移送せざるを得なくなり,同病院で開頭減圧手術が行われている。したがって,医務部が,当時,急性期の脳卒中の患者に対して医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を行える態勢になかったことは,明らかというべきである。

5 D医師及びE医師は,前記1掲記の事実からして,4月1日午前8時30分ころの時点において,上告人が急性期の脳卒中患者であることは認識していたか,少なくとも認識し得たものというべきであり,また,当時の医務部が急性期の脳卒中患者に対して医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を行える態勢にないことも,当然に認識していたというべきである。そうすると,東京拘置所のD医師及びE医師は,急性期の脳卒中患者である上告人について,脳血管障害の専門医による医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を行うことのできる医療機関へ直ちに移送し,適切な医療行為を受けさせる義務があったものというべきであり,同医師らには,これを怠った過失があるといわざるを得ない。これにより,上告人は,急性期の脳卒中患者として専門医による医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたのであるから,被上告人は,国家賠償法に基づき,上告人の上記利益侵害に係る精神的損害を賠償する責任があるというべきである。

6 多数意見は,最高裁平成15年11月11日第三小法廷判決を引用し,「本件においては,上告人に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということができない以上,東京拘置所の職員である医師が上告人を外部の医療機関に転送すべき義務を怠ったことを理由とする国家賠償請求は,理由がない。」と判断している。上記第三小法廷判決は,開業医が,その下で通院治療中の患者について,自らの開設する診療所では検査及び治療の面で適切に対処することができない何らかの重大で緊急性のある病気にかかっている可能性が高いことを認識することができたなどの判示の事情の下では,当該開業医には,高度な医療を施すことができる適切な医療機関へ当該患者を転送し,適切な医療を受けさせる義務があるとした上,「患者の診療に当たった医師が,過失により患者を適時に適切な医療機関へ転送すべき義務を怠った場合において,その転送義務に違反した行為と患者の上記重大な後遺症の残存との間の因果関係の存在は証明されなくとも,適時に適切な医療機関への転送が行われ,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受けていたならば,患者に上記重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されるときは,医師は,患者が上記可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解するのが相当である。」と判示したものであって,患者を総合医療機関に転送すべき開業医の義務を否定し,かつ,早期転送によって当該患者の後遺症を防止できたことについての相当程度の可能性があるとすることもできないとした原判決を破棄したものである。上記第三小法廷判決は,患者に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたときは,医師は「患者が上記可能性を侵害されたことによって被った損害」を賠償すべき不法行為責任を負う,と判示しているに過ぎず,医者が過失により患者を適時に適切な医療機関へ転送すべき義務を怠った場合においても,患者に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということができないときは,医師は「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたことによる損害」等を賠償すべき不法行為責任を負うものではないと判断したものではない。上記第三小法廷判決に先立つ最高裁平成9年(オ)第42号同12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁も,医師が患者に対して適切な医療を行った場合には,患者を救命し得たであろう高度の蓋然性までは認めることはできないが,これを救命できた可能性はあったという事実関係の下で,医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは,医師は患者に対し不法行為による損害を賠償する責任を負うと判示したものであり,上記の生存していた相当程度の可能性の存在が証明されなかった場合の医師の損害賠償責任の有無に触れるものではない。「重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性を侵害されたこと」と,「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたこと」とは,別個の利益侵害である。「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益」が,不法行為法上の保護利益となり得るかどうかが問題であり,保護利益となり得るとすれば,医師側の不法行為責任が肯定されるのである。

7 そこで,これまでの最高裁判例が,医療関係事件において,「生命」,「身体」,「死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性」,「重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性」のほかに,いかなる利益を不法行為法上の保護法益と認めてきたかを眺めることとする。

(1) 最高裁平成10年(オ)第1081号,第1082号同12年2月29日第三小法廷判決・民集54巻2号582頁は,「患者が輸血を伴う可能性のあった手術を受けるか否かについて意思決定をする権利」を保護法益と認めた。

(2) 最高裁平成10年(オ)第576号同13年11月27日第三小法廷判決・民集55巻6号1154頁は,「乳がんの患者が,担当医師から,自己の乳がんについて乳房温存療法の適応可能性のあること及び乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在の説明を受け,担当医師により胸筋温存乳房切除術を受けるか,あるいは乳房温存療法を実施している他の医療機関において同療法を受ける可能性を探るか,そのいずれの道を選ぶかについて熟慮し判断する機会を与えられること」を保護利益と認めた。

(3) 最高裁平成10年(オ)第1046号同14年9月24日第三小法廷判決・判例時報1803号28頁は,医師が末期がんの患者の家族等に病状等を告知しなかった事案において,家族等が告知を受けていた場合には,医師側の治療方針を理解した上で,物心両面において患者の治療を支え,また,患者の余命がより安らかで充実したものとなるように家族等としてできる限りの手厚い配慮をすることができることになり,「適時の告知によって行われるであろうこのような家族等の協力と配慮は,患者本人にとって法的保護に値する利益である」と判示した。

(4) 最高裁平成14年(受)第989号同17年9月8日第一小法廷判決・裁判所時報1395号1頁は,帝王切開術を強く希望していた夫婦が,担当医師から胎児の最新の状態等の説明を受けて,「胎児の最新の状態を認識し,経膣分娩の場合の危険性を具体的に理解した上で,担当医師の下で経膣分娩を受け入れるか否かについて判断する機会を与えられること」を保護利益と認めた。

8 前記6で指摘した「患者が適時に適切な医療機関へ転送され,同医療機関において適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益」は,前記7に掲げた最高裁判例が不法行為法において法的保護に値する利益であると既に認めているものと比較しても,保護すべき程度において,勝るとも劣らないものであり,不法行為法上の保護利益に該当するというべきである。そうすると,急性期の脳卒中患者として専門医による医療水準にかなった適切な検査,治療等の医療行為を受ける利益を侵害された上告人は,上記の不法行為法上の保護利益を侵害されたものであり,被上告人は,国家賠償法に基づき,上告人の上記保護利益侵害による精神的損害を賠償すべきである。

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