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下級審医療判例real estate

札幌地判平15.12.8
                    主     文
1 被告は,原告に対し,7320万8274円及びこれに対する平成4年7月20日か
ら支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを5分し,その3を原告の負担とし,その余を被告の負担とす
る。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。ただし,被告は,1000
万円の担保を立てて,この仮執行を免れることができる。
                    事実及び理由
(略)
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)(被告の責任原因)のうち,クリッピング術の過誤の有無について
(1) 証拠(乙27,613,620,D証人,E証人)によれば,ヒトの脳の血管とクリッピングないしトラッピングについて,以下のとおり認められる。
すなわち,左右の内頚動脈から分岐した各前大脳動脈は,その中途において,交通動脈により橋渡しの形で結ばれており,左右の前大脳動脈と前交通動脈とでH字型を形成している。前大脳動脈は,交通動脈よりも心臓側をA1分節,末梢側をA2分節と呼ぶ。血流は,左前大脳動脈A1分節から前交通動脈を経て右前大脳動脈A2分節へ行く流れと,右前大脳動脈A1分節から前交通動脈を経て左前大脳動脈A2分節へ行く流れのほか,左右の各前大脳動脈において,前交通動脈を経ないで,A1分節からA2分節へ行く流れもあるため,クリップで前交通動脈を完全に挟み,その血流を遮断しても,一般に,各前大脳動脈のA2分節への血流は保持される。そのため,前交通動脈瘤破裂の治療に際しては,破裂点が瘤の頚部(動脈瘤と血管の接する部分,すなわち,瘤の根元に当たる箇所)にある場合,瘤のみを挟んでも再出血を必ずしも予防できないため,母血管である前交通動脈中の動脈瘤の前後2か所において,クリップで血管を完全に挟み,動脈瘤への血流を遮断する方法が選択されることがある。この方法を,クリッピングの中でも特にトラッピングという。4月2日の手術において,原告の前交通動脈瘤の破裂点が頚部にあったため,担当医師は,トラッピングを施行した。
(2) 証拠(甲17,乙1,590,605,606,610,611の1,613,E証人)によれば,脳血管れん縮について,以下のとおり認められる。
すなわち,脳血管れん縮は,脳の血管が糸のように細くなる現象で,虚血症状,ひいては脳梗塞をもたらすことがある。脳血管れん縮は,クモ膜下出血患者の術後にみられ,ある統計によれば,その47パーセントに発生し,原告のように,クモ膜下出血の程度がフィッシャー分類のグループVであれば,その87パーセントに出現する。脳血管れん縮には,手術直後に発生し,短時間に消失する早期れん縮と,クモ膜下出血後1,2週間後に発生し,長時間持続する遅発性れん縮の2種類がある。また,多くはびまん性であるが,限局性のものもある。一般に,脳血管れん縮は,1か月程度の間に正常に復する可逆的な現象であるが,血管が器質的に変化し,かなり長期にわたって血管の狭窄を示す場合もある。ある統計によれば,脳血管れん縮の70パーセントのものが,クモ膜下出血後4日目から13日目の間に発生し,28日目には正常に復したが,他の統計によれば,れん縮のみられた14名の患者のうち,11名はクモ膜下出血後33日以内にれん縮が消失し,3名は,それぞれ35日,45日,57日経過しても残存した。脳血管れん縮の原因は不明であり,根本的な治療法もないが,一応,循環血液量の増加や高血圧療法等が予防と治療に有効であるとされ,一般に,大量の輸液,血しょう蛋白,ザヴィオゾール,昇圧剤の投与がされている。
(3) 証拠(乙570ないし572,K証人,E証人)によれば,5月7日の脳血管撮影の写真上,原告の左前大脳動脈は,そのA1分節の中央部付近から末梢方向へ向けて狭窄し,A2分節も細く写っており,狭窄して写っている部分の長さは100ミリメートル以上であること,他の血管には狭窄はみられないことが認められる。
(4)ア 原告は,上記(3)のような原告の左前大脳動脈の状況について,クリップの挟み過ぎにより血流が不足したためであると主張し,証拠中にも,これに副う見解を述べるものがある。すなわち,甲8及びK証人は,クリップの片方の位置が悪く,前交通動脈のみならず,左前大脳動脈との分岐部までも挟み込んでしまい,左前大脳動脈のA2分節への血流が極端に少なくなったことにより,脳血管撮影上,A2分節が細く写っているのであり,脳血管れん縮により細くなっているのではないとする。また,鑑定も,トラッピングの位置が不適切で,クリップ部で左大脳動脈の狭窄を来したことが疑われるとする。
イ 確かに,前記(2)判示のとおり,脳血管れん縮の多くはびまん性,可逆性のもので,出血後1か月以内に正常に復するところ,原告の左前大脳動脈の狭窄は,左前大脳動脈以外の血管にはみられなかった点,また,出血後1か月以上経過した時点でもみられた点において,上記の一般的特徴とは異なる。しかし,同判示のように,少数ではあるが,限局性のれん縮もあるし,出血後45日以上経過した時点でもれん縮がみられた例があり,原告の所見は,脳血管れん縮のそれと矛盾するとまではいい難い。
ウ 証拠(甲18,19,乙570ないし572,K証人)によれば,5月7日の原告の脳血管撮影の写真では,左前大脳動脈がA2分節の途中から写っていないところ,甲8及びK証人は,脳血管れん縮の場合,血管全体が細くなり,脳血管撮影では末梢まで写る筈であり,原告の上記所見は脳血管れん縮のものとは異なるとする。しかし,れん縮の程度が強い場合に,末梢部分の血流が完全に途絶えて,造影剤が行き渡らず,末梢部分が脳血管写真に写らなくなる可能性も考えられるから,すべての脳血管れん縮が,末梢まで写るかどうかは不明であり,上記のような所見から,直ちに,脳血管れん縮を否定することはできない。
エ 原告の入院診療録である乙1には,脳血管れん縮の記載は全くなく,このことは,一応,担当医師において,脳血管れん縮を認識しておらず,ひいては,客観的にも,脳血管れん縮が生じていないことを疑わせなくはない。しかし,各月の診療後ほどなく作成されたと推認される4月分から6月分の診療報酬明細書(乙607ないし609)には,脳血管れん縮の病名が記載されている。また,前記(2)のとおり,クモ膜下出血の程度がフィッシャー分類のグループVであれば,殆どの患者に脳血管れん縮が発生するので,わざ
わざ記載しなかったとのD証言も,一概に信用性を否定し難い。5月7日の脳血管撮影で左前大脳動脈に狭窄がみられたことは明らかであり,仮に,担当医師が脳血管れん縮を認識していなかったなら,他のこの狭窄につき他の病名等を診療録に記載して然るべきであるのに,全く記載していないことは,かえって,担当医師が,クモ膜下出血後一般的に生じる脳血管れん縮であると認識していたことを裏付けるともいえる。
また,証拠(乙13,14,19,20,230,605,613,D証人)によれば,原告に対しては,4月2日の手術直後から,大量の輸液がされ,4月3日から同月15日まで血漿蛋白であるアルブミンが点滴使用され,脳循環改善の目的で,ザヴィオゾールも点滴され,4月7日からは,血圧を高く維持するため,昇圧剤であるカタボンを投与し,同月10日からは,クモ膜下出血後の脳血管れん縮による脳虚血予防の薬剤であるエコナールも点滴使用されたことが認められるところ,これらは,前記(2)判示のような,脳血管れん縮の治療として一般に採られている方法である。原告は,この程度の措置は脳梗塞患者に対して定型的に用いられる,いわばルーチンの方法であり,脳血管れん縮を意識した特別なものとはいえないと主張し,K証人も同旨の証言をするけれども,上記の各措置は,前記(2)判示のような脳血管れん縮に対して採られている予防,治療法と符合し,担当医師が脳血管れん縮を意識していなかったと断定することはできない。
オ なお,証拠(乙575,611の1,D証人)によれば,4月8日撮影したCT写真上みられる両側前頭葉内側の脳梗塞様の低吸収域は,クモ膜下出血後の脳血管れん縮によるものとしては発生が早期に過ぎるということができる。しかし,証拠(D証人,鑑定)に照らすと,この低吸収域は,同月2日の手術における脳ベラによる脳の圧排による挫傷によると認めるのが合理的であり,左前大脳動脈の狭窄とは関係がなく,この低吸収域の所見によって,クリッピングの過誤を裏付けることはできない。
カ そして,クリップを挟む位置を誤り,血流を阻害している場合には,クリップで挟んでいる箇所のみが狭くなる筈であり,その位置より心臓側の血管が狭窄することは考えられないにもかかわらず,前記(3)のとおり,原告の左前大脳動脈は,交通動脈との分岐点よりも心臓側の,A1分節の中途から狭窄している。鑑定も,この点については原因が不明であるとしており,K証人は,手術中一時的にクリップで脳血管の血流を遮断するテンポラルクリップ(E証人により,本件においてもこれがされたことが認められる。)の痕跡が残っている等,他の原因の可能性を指摘するものの,なお,その存在は不明確で,裏付けを欠く。
 また,クリップより末梢側の血管についても,K証人は,脳血管撮影のため注入された造影剤が,クリップで挟み込まれたことにより生じた血管内腔の狭い隙間から左前大脳動脈のA2分節にジェット状に流れるため,A2分節が細く写っていると考えられ,脳血管れん縮により血管が狭窄化しているのではないと述べる。しかし,クリップより末梢側のA2分節の血管内腔が細くなっていないならば,クリップの挟み込みにより生じた狭い隙間から細くジェット状に流れた造影剤は,やはりA2分節の内腔全体に広がり,A2分節は細く写らない筈であり,同証言のこの部分は採用できない。
(5) 以上検討したように,5月7日の脳血管撮影上の所見は,脳血管れん縮ではなく,クリッピングの誤りによるとする前記証拠も,相応の説得力を有するが,とりわけ前記(4)カのように,クリップにより左前大脳動脈の一部を挟み込んだことからは説明のできない所見上の特徴がある。本件において,担当医師がクリッピングを誤ったと認めるには,なお,無視できない疑いが残り,この点に関する前記(4)アの原告の主張及びこれに副う証拠は,結局,採用することができない。
2 争点(1)(被告の責任原因)のうち,MRSA感染症への対応の過誤について
(1) 前記前提となる事実(2)アのとおり,原告については,4月16日に痰から,同月24日にIVHカテーテル先から,5月15日及び同月21日に痰から,それぞれMRSAが検出されている。しかし,証拠(乙592,613,D証人,E証人,鑑定)によれば,MRSAは,多くの抗生物質に耐性を示し,バンコマイシン等の一部の抗生物質の投与が有効とされるが,常在菌であり,感染症発症前の単なる保菌の段階で安易にバンコマイシン等を使用することは,菌の耐性化を促進するおそれがあるため,避けるべきであり,一般に,バンコマイシンの使用等の治療を開始するのは,感染症が発症してからであるとされていることが認められる。
(2) そこで,原告について,MRSA感染症がいつ発症したか及びどの時点でMRSA感染症への治療,対処をすべきであったかについて検討する。証拠(乙18,620,証人D)及び前記前提となる事実によれば,原告は,頭蓋骨形成術及びV−Pシャント術が施行された5月8日以降,ほぼ連日38.2度以上の高熱が続き,白血球数,CRP値が前記前提となる事実(3)のとおり上昇したこと,原告は,同月10日には,V−Pシャントに沿った痛みを訴えるようになり,同月13日には頚部痛,頭痛を訴えるようになったこと,その後,白血球数は同月21日に6000,CRP値は同月25日に0.4と,いずれも正常値になり,体温も同日には平熱に戻り,以後,6月3日まで,感染症を疑わせる所見はみられなかったことが認められる。
原告は,上記5月8日から同月25日ころまでの症状をもって,MRSA感染症が発症したと主張する。しかし,CRP値は,炎症を含む種々の原因によって生じた組織崩壊によってもたらされた物質の値であり,炎症の存在を診断する1指標となるが,傷害や外科手術によっても上昇することがある(乙598,599,613)ので,このCRP値の上昇は,5月8日の頭蓋骨形成術及びV−Pシャント術によると認める余地が多分にある。また,V−Pシャントは,頭部から腹部にわたって長いトンネルを皮下に作り,そこにチューブを通して設置する手術であり,原告が上記のとおり訴えたシャントチューブに沿った痛みは,チューブが皮下を通ることにより生じた創部の痛みである可能性も高く,MRSA感染の炎症による痛みとは認めるに足りない。さらに,上記の発熱及び白血球数の増加がMRSAによるならば,バンコマイシンの投与等MRSA感染症に有効とされる治療を行っていないにもかかわらず,同月25日までにこれらが正常に復したことを説明することができない。
そうすると,6月2日以前は,MRSAは未だ保菌の段階と認められ,その場合に,バンコマイシンの投与等特段の治療を施さず,あるいは,V−Pシャントを全部抜去しなかったことをもって,担当医師の義務違反と評価することはできない。
しかし,前記前提となる事実(1)オのとおり,6月3日には,明らかにMRSA感染症としての腹膜炎が発症しており,かつ,担当医師もこの発症を知ったのであるから,同日の時点で,バンコマイシンを投与するのみならず,脳室内への感染を防ぐため,MRSAにより汚染されたと容易に認識し得るシャントチューブを全部抜去し,一時的脳室外髄液ドレナージ等の措置を執るべき注意義務があったというべきである。なお,前記前提となる事実(2)イのとおり,髄液培養の結果においては,1度もMRSAが検出されていないが,髄膜炎がMRSA感染症である可能性もある(E証人)。しかし,いずれにせよ,髄膜炎がMRSA感染症であったか否かは,上記の注意義務の存在を否定するものではない。
(3) しかるに,担当医師は,上記の義務を怠り,前記前提となる事実(1)オないしキのとおり,漫然と,7月20日に至るまで実に1か月半以上にわたって,MRSAに汚染されていることが明らかなシャントチューブを,原告の脳室側に装着し続けた。そして,同日存在が判明した原告の大脳右半球の脳膿瘍は,チューブの先に当たる位置にあり,その発生は,担当医師が6月3日にシャントチューブを全部抜去しなかったことにより,同日以降,MRSAがチューブを伝って脳内に侵入,感染したためであると認められる。D証人は,6月3日の腹膜炎の発症段階で,皮下のシャントチューブに沿った部分全体が炎症を起こしていなかったことから,シャントチューブのうち,腹部側を除く部分はMRSAに汚染されていなかったと判断したと証言するが,余りに軽率な判断であるといわざるを得ず,上記義務違反の評価を何ら動かすものではない。
(4) したがって,被告は,民法715条に基づき,原告に対し,脳膿瘍により被った損害を賠償する義務を負う。
3 争点(1)(被告の責任原因)のうち,原告の脳膿瘍と精神障害との因果関係について
(1) 証拠(乙1,18)によれば,原告は,4月1日朝,強い頭痛,意識消失,嘔吐を訴えて被告病院を受診し,その際,軽度の意識障害と右上下肢の片麻痺があったこと,本件クリッピング術の後,4月2日には,意識障害と右片麻痺があったこと,同月7日には,意識はかなり清明となったが,右片麻痺を認めたこと,この片麻痺は,5月7日ころには消失したことが認められる。
(2)ア 証拠(甲20ないし23,乙564,574,575,611の1,D証人,K証人)によれば,原告のクモ膜下出血の程度は,フィッシャー分類のグループVで,この出血は,クモ膜下腔から軟膜を破って一部が脳にめり込み,その血腫が左前頭葉内側を損傷したこと,手術直後である4月2日のCT写真において,手術で取り切れなかった血腫の一部のほか,低吸収域すなわち血腫の周りの挫傷がみられること,翌3日には,両側の前頭葉底部から頭頂葉にかけて,淡い低吸収域が広範にみられ,同月5日には,これが明瞭になってきたこと,同月6日には,血腫はかなり吸収されているものの,低吸収域がかなり明瞭になってきたこと,同月8日のCT写真では,低吸収域の周囲に脳浮腫が認められること,この低吸収域は,手術時の脳ベラによる損傷によるものであること(前記1(4)オ。この損傷は,手術のため,やむを得ないもので,被告に責任を問うことはできない。),5月26日に行った脳血流シンチで,両側前頭葉の血流が悪く,特に左前頭葉において顕著であったことが認められる。
イ 証拠(甲8,27,乙1,564,578,579,K証人)によれば,原告の脳膿瘍がCT写真上初めて現れたのは7月2日であること,この脳膿瘍は,右の前頭頭頂葉に生じており,左の大脳には及んでいないこと,7月20日の時点で,脳膿瘍の周囲に強い浮腫が起こり,大脳右半球が腫れ,本来中心にあるべき線が左側に2センチメートルほどずれる程度のものであったこと,9月25日には膿瘍はほぼ消失し,浮腫も改善されていることが認められる。
(3)ア 5月までの原告の症状についてみるに,証拠(甲5,6,乙18,原告法定代理人(原告の後見人F。以下同じ。))によれば,原告は,自分の住所や,面会に来た人を忘れることがあり,5月25日には他人のベッドで寝ていたことがあったものの,妻のFと通常の会話が可能で,仕事の話や,ゴルフの話もしていたこと,4月中下旬には,見舞客にも普通に対応していたこと,頭痛,腹痛等の医療情報については,看護婦に対する受け答えに特段不自然なところはみられなかったこと,手指しやグーチョキパー等の看護婦からの指示に対しては,殆ど正しく反応していたこと,看護婦からの質問に対し,4月中は自己の氏名,自分の年齢,生年月日,場所については正答と誤答がほぼ相半ばしていたが,5月には自己の氏名につきすべて正答したこと,但し,当日の月日についてはすべて誤答したこと,自分の氏名についての質問に対する誤答では,「Lメロンちゃん」「Lのおばちゃん」(以上,4月12日),「L満太郎」(同月15日),「いいのすけ」(同月20日)と,しばしば,ふざけたような回答をしていたこと,食事は自力で摂取し,排尿・排便も,5月16日,19日に失禁したものの,概ね自力でできたことが認められる。
イ しかるに,証拠(甲1,4,12,16,35,乙9,583,586,原告法定代理人)によれば,原告は,7月ころ以降,妻のFや娘も分からない状態になったこと,10月半ばころには,いつも笑顔だが,会話が成り立たなくなっていたこと,12月7日には,身体障害者等級1級の認定を受け,平成5年7月10日には「食事は自力では不可能,排尿,排便については尿失禁,便失禁があり,尿意,便意も不明であり,歩行については転倒の危険があるため監視又は介助が必要,全ての日常生活に介助が必要である。田中ビネー知能検査(検査日は同月7日)で,精神年齢は4歳10か月,知能指数(IQ)は32であり,著名な精神機能の低下を示している。ベンダー・ゲシュタルトテストは不能。」と診断されたこと,同年8月5日の退院後は,IQは平成6年6月22日が56,平成7年6月29日が66,平成8年6月ころが72と,一時的に改善されたものの,禁治産宣告の際の鑑定時(平成9年3月から同年5月まで)には,WAIS−R成人知能検査では全検査評価合計57点,ベンダー・ゲシュタルトテストでは総合得点143点と極めて高く,視知覚のまとまりに欠け,著しいゲシュタルトの崩壊がみられ,ベントン視覚記銘検査で,正確数は2,誤謬数は14で,重度の欠陥がみられ,記銘,知的障害(痴呆)を主とする高次脳機能障害の状態にあり,事理弁別能力は失われていること,現在,原告は,物忘れがひどく(健忘),食事等の日常生活は,介護者が指示しなければできず,トイレも,介護者が時間を見計らって指示,誘導しなければ行かないこと,勝手に外出してしまい,迷子になることが認められる。
(4)ア 前記(3)アのような原告の症状について,被告は,コルサコフ症候群様の症状であり,コルサコフ症候群は,大脳辺縁系を中心とする病変により発症するもので,大脳右半球に生じた原告の脳膿瘍とは符合しないと主張し,証拠(乙613,D証人)中にも,これと同様の意見を述べるものがある。なお,コルサコフ症候群とは,もともと,ロシアの医学者コルサコフが報告した,アルコール中毒患者にみられる健忘,作話,多弁等の特徴を有する状態をいい,同様の症状が,クモ膜下出血後の患者にみられることがある(乙612,D証人)。また,一般に,前頭葉の損傷により,悪ふざけをしているような態度をとる症状(遊戯症)が患者に現れることがある(乙604)。これらに照らすと,原告の上記のような症状は,前記(2)アに判示した血腫等による前頭葉の損傷に基づく,コルサコフ症候群様の症状あるいは遊戯症であると認められる。
原告は,前記(3)アのような原告の言動について,看護婦からの質問に対し,意識的に正答と誤答を使い分け,看護婦をからかっていたにすぎず,コルサコフ症候群様の症状ではないと主張するが,そのように認めるに足りる根拠はなく,この主張は採用できない。
イ 被告は,コルサコフ様症候群様の症状を含めた高次脳機能障害は,クモ膜下出血後の脳血管れん縮によるものとして,MRSA感染症発症より前から存在し,原告の脳膿瘍は完治し,現在の精神障害との因果関係はないと主張する。しかし,前記(3)イに照らすと,原告の現在の症状は,4月,5月における症状と明らかに程度を異にしているところ,前記(2)イ判示のような7月20日時点での脳膿瘍の規模からすると,その形成は,同日よりも相当程度前から始まっていたと認められ,原告の症状が上記のように重篤化した時期と概ね符合する。これらに照らすと,この重篤化の原因は,前記(2)イ判示のような脳膿瘍及びこれに伴う浮腫により,原告の大脳組織を長期間圧迫し,不可逆的な損傷を与えたことであると推認するほかはない。
被告は,原告の症状は,右大脳半球に限局した原告の脳膿瘍とは符合しないと主張する(争点(1)イ(ウ)a)。また,禁治産審判事件で鑑定にあたったN医師は,原告については,右視野図形における記銘力の障害が顕著で,左脳の障害が示唆されるとの意見を述べている(甲1)。しかし,同医師も,証人として,現症状が,左脳半球の障害に起因すると断定することまではできないと証言している上,前記(2)イのとおり,原告の脳膿瘍により,脳の中心線が2センチメートル左側へずれていたのであり,これにより左脳も損傷を受けた可能性が十分にあるのであって,仮に,原告の現症状が,左脳の障害に起因するものであるとしても,脳膿瘍及びこれに伴う浮腫と符合しないということはできない。
 また,N証人は,平成4年当時の高次脳機能障害と,平成9年の上記鑑定時の機能障害とは,基本的に同質であると証言する。しかし,同証言は,平成4年の脳膿瘍の発生の前後及び上記判示のような双方の症状の程度の差に着目してされたものではなく,上記証言をもって,必ずしも,原告の脳膿瘍と症状との因果関係についての上記認定を動かすに足りない。
4 争点(2)(損害)について
(1) 治療費自己負担分   2万5000円
原告は,治療費自己負担分の損害として4万4341円を主張するが,その証拠として提出する甲48の1ないし8は,4月分から11月分までの治療費に係るものである。
本件不法行為がなくても,原告は,6月末までは入院を余儀なくされたと推認され(乙4,5,弁論の全趣旨),本件不法行為と因果関係のある治療費自己負担分は,甲48の4ないし8により,7月分から11月分までの合計2万5000円であると認められる。
(2) 入院雑費      49万3200円
前記(1)のとおり,本件不法行為がなければ,原告は,およそ3か月で退院できたと推認され,本件不法行為と因果関係のある入院雑費は,7月1日から平成5年8月5日まで及び平成6年4月9日から同月18日までの合計411日間について1日当たり1200円で計算した,合計49万3200円と認められる。
(3) 逸失利益    3529万9656円
ア 前記3(3)アで判示した原告の症状に照らすと,脳膿瘍が生じる前の原告の状態は,少なくとも,後遺障害等級7級4号の「神経系統の機能又は精神に障害を残し,軽易な労務以外の労務に服することができないもの」に該当し(なお,甲8も,MRSA感染症が生じていなければ,原告は,日常生活の自立は可能であり,リハビリにより,軽ないし中作業程度の肉体労働であれば可能な状態に復し得たとする。),その労働能力喪失率は56パーセントであると認めるのが相当である。そして,このことについては,クモ膜下出血に伴って不可避的に生じた損害として,被告に賠償責任を負わせることはできない。
脳膿瘍が生じた後については,前記3(3)イの原告の症状の推移に照らすと,原告は,遅くとも平成5年8月5日の退院時までには症状が固定し,後遺障害等級第1級の3(平成4年当時の区分。神経系統の機能又は精神に障害を残し,常に介護を要するもの)の後遺障害が残存し,労働能力喪失率は100パーセントであると認められる。なお,退院後,IQが72まで改善されたことがあったことは前記3(3)イのとおりであるが,一時的なものにすぎず,基本的に原告の症状に変化は認められないから,このIQの改善をもって,直ちに,症状固定日に関する上記認定を動かすことはできない。
 そうすると,原告は,MRSA感染により生じた脳膿瘍により,44パーセントの労働能力を喪失したことになる。
イ 原告は,昭和29年1月26日生まれで,上記症状固定時である平成5年8月5日において満39歳で,労働能力喪失期間は28年間であり,被告の不法行為による喪失率は前記アのとおり44パーセントである。
原告は,本件事故当時,Jに勤務し,平成4年の給与は538万5015円であった(甲44,45)。そこで,28年のライプニッツ係数14.8981を用いて計算すると,逸失利益は,次式のとおり,3529万9656円となる。なお,基礎収入額として,賃金センサスの額を用いるべきであるとする原告の主張及び60歳以降は上記年収額を用いて計算すべきでないとする被告の主張は,いずれも独自の見解であって採用できない。
538万5015円×0.44×14.8981=3529万9656円
(4) 入院慰謝料    300万円
原告は,本件不法行為により,約1年1か月に及ぶ長期の入院を強いられたから,その平成4年当時の慰謝料としては,300万円が相当である。
(5) 後遺障害慰謝料  700万円
本件不法行為による原告の労働能力喪失率が44パーセントであることにかんがみ,後遺障害についての慰謝料としては,700万円が相当である。
(6) 付添看護費用  2039万0418円
原告は,常に介護を要する状態にあるが,被告に対しては,付添看護費用の44パーセントを負担させるのが公平上相当である。
症状固定日(平成5年8月5日)から平成15年5月21日まで3577日分の近親者看護費用を1日あたり5000円として計算すると,付添看護費用は1788万5000円となる。
また,平成15年5月21日時点での原告の平均余命は31年であり,ライプニッツ係数15.5928により中間利息を控除すると,同日以後の付添看護費用は,次式により2845万6860円となる。
5000円×365日×15.5928=2845万6860円
そうすると,次式により,被告の負担すべき付添看護費用は2039万0418円となる。
(1788万5000円+2845万6860円)×0.44=2039万0418円
(7) 弁護士費用    700万円
弁護士費用としては,上記(1)ないし(6)の合計6620万8274円の約1割である700万円が相当である。
(8) 損害額合計   7320万8274円
第4 結論
以上によれば,原告の請求は,7320万8274円及びこれに対する不法行為の日である7月20日(脳膿瘍が極大化したと認められる日)から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,これを認容し,その余は失当として棄却することとする。


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